日本の教育を考える10人委員会
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2005年度 委員のプロフィール
委員のプロフィール及び「私はこう思う」
委員長(敬称略)
佐和 隆光(京都大学経済研究所所長) プロフィール・私はこう思う >>
委員(敬称略、五十音順)
市川 昭午(国立大学財務・経営センター名誉教授) プロフィール・私はこう思う >>
尾木 直樹(教育評論家・法政大学教授) プロフィール・私はこう思う >>
小野田 誓(社団法人日本PTA全国協議会相談役) プロフィール・私はこう思う >>
黒崎  勲(日本大学教授) プロフィール・私はこう思う >>
佐藤  学(東京大学教授) プロフィール・私はこう思う >>
里内  勝(滋賀県栗東市教育長) プロフィール・私はこう思う >>
樋口 恵子(評論家・東京家政大学名誉教授) プロフィール・私はこう思う >>
藤田 英典(国際基督教大学教授) プロフィール・私はこう思う >>
宮崎  緑(千葉商科大学助教授) プロフィール・私はこう思う >>
守屋 大光(神奈川県葉山町長) プロフィール・私はこう思う >>
渡邉 光雄(福島県原町市教育長) プロフィール・私はこう思う >>


佐和 隆光(京都大学経済研究所所長・日本の教育を考える10人委員会委員長)

プロフィール
 計量経済学、及びエネルギー・環境経済学を専門としている。70年代に都合4年間、アメリカの大学で教育・研究に従事。そのころは、もっぱら計量経済学の方法に関する英語の論文を執筆。79年に帰国して後はエネルギー・環境問題に関心を移し、また資本主義経済の行方に関する考察にも時間を割くようになる。主だった著書は以下のとおり。『数量経済分析の基礎』、『経済学とは何だろうか』、『資本主義の再定義』、『地球温暖化を防ぐ』、『市場主義の終焉』、『日本の「構造改革」』など。

私はこう思う
 戦後60年を振り返ってみると、その間に、三つの転換点があったと私は考える。第一の転換点は1957年7月から58年6月にかけての「なべ底不況」である。この不況は、戦後復興期に終止符を打ち、高度成長期(実質経済成長率が平均年率9.4%)の幕を切って落とした、という意味での転換点であった。第二の転換点は1973年12月から75年3月にかけての「オイルショック不況」である。この不況は、高度成長期に終止符を打ち、減速経済期(平均年率4.2%の実質経済成長率)へと日本経済を立ち向かわせた。そして、第三の転換点が1991年2月から93年10月にかけての「平成不況」である。平成不況後の日本経済は、平均年率1%台という低成長にあえいでいる。
無資源国日本が、破竹の高度経済成長、そしてオイルショックの克服という偉業を成し遂げられたのは、いつに人的資本(人材)に恵まれていたからである。それは、平均的に高い義務教育のレベルを維持することができたからである。NHKの人気ドラマ「プロジェクトX」に登場する新製品開発の担い手たちには、大学の工学部の出身者ではなく、工業高校卒のエンジニアが多かった。このことは、この国の義務教育のレベルがいかに高かったのかを示して余りあるのではないだろうか。
 1987年から90年にかけての4年間、私たち日本人の多くはバブル経済に酔い痴れた。電話を2、3本かけるだけで、いわゆる「土地転がし」をやり、難なく数千万円の儲けを手にするやからが、現に幾人もいたのである。そうした話を聞くにつけ、子供たちは、勤勉、努力、真面目、誠実といった日本古来の徳目を、忘却のかなたに追いやってしまったのである。以来15年を経た昨今、日本経済は往年の面影をすっかり失ってしまった。若者が勤勉でなくなり、努力しなくなった国の経済が成長するわけがない。
 子供たちを不勉強にしたのは、バブル経済期の負の遺産の最たるものといえよう。90年代のことを「失われた10年」というけれども、最大の遺失物はと問われれば、私は躊躇なく「人的資本の劣化である」と答えたい。子供たちに「学び甲斐」を、そして若者たちに「働き甲斐」を取り戻させようではないか。そのためには、義務教育の建て直しが急務である。教育は国家百年の計。政府は欧米先進国並みに初等中等教育にお金を注ぎ込むべきである。そのようにして人的資本の「質」を高めることは、日本経済の潜在的な成長力を高め、ひいてはそれが、破綻した財政を建て直すための、唯一無二の方策なのではないだろうか。

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市川 昭午(国立大学財務・経営センター名誉教授)

プロフィール
 1953年東京大学教養学部卒業。北海道大学助教授、東京教育大学助教授、筑波大学教授、国立教育研究所次長、国立学校財務センター研究部長などを歴任。現在、国立教育政策研究所名誉所員・国立大学財務・経営センター名誉教授。教育政策・教育行財政専攻。
 著書に「学校管理運営の組織論」「専門職としての教師」(以上、明治図書)、「教育財政」(東京大学出版会)、「教育サービスと行財政」(ぎょうせい)、「教育行政の理論と構造」「生涯教育の理論と構造」「教育システムの日本的特質」「教育改革の理論と構造」「臨教審以後の教育政策」「未来形の教育」「教育基本法を考える」(以上、教育開発研究所)、「高等教育の変貌と財政」「未来形の大学」(以上、玉川大学出版部)など。

私はこう思う
 私は分権化と義務教育に関して次の四点を指摘したい。
 第一は教育行財政について集権的・分権的制度のどちらを採るべきか一概にはいえないということである。紙幅の関係で詳しく紹介することはできないが、それぞれについて幾つかのメリット・デメリットが指摘されているからである。むろん今日教育の地方自治が説かれるのは教育的・財政的に望ましいという判断に基づくのであろう。しかし教育的・財政的に集権化を是とする見解も成り立ち得るのであって、分権化が自明の理ということはできない。したがって義務教育に誰が責任を負うべきかは義務教育の目的によって判断すべきだということになる。義務教育は国の事務か、地方の事務かが戦前から論議されてきたのもそのためであろう。
 第二は義務教育は国だけの事務、地方だけの事務ではなく、共同の事務だということである。教育基本法によれば公教育の目的は民主的・文化的・平和的国家・社会の形成者の育成とひとり一人の個性の尊重・人格の完成であるが、公教育の中心をなす義務教育の目的もまた同じである。この“国家・社会”には地方団体や地域社会も含むと解することもできるが、義務教育の目的は地域住民を育てることだけではない。国や国民社会もまたそれに劣らず義務教育の重要なステイクホルダーである。地方財政法にも「国と地方公共団体相互の利害に関係のある事務」と規定されている通り、義務教育が国の事業か地方の事業かではなく、国と地方の共同事業なのである。
 第三は義務教育費の地域間格差が絶対にあってはならないというのではなく、これ以上格差が拡大してよいのかが問題だということである。児童生徒の保護者と並んで国と地方の双方が義務教育に責任を負う制度設計になっている以上、財政支出の義務教育費に地域間格差が生じるのは避けられない。
 現に都道府県間で児童・生徒一人当たりあるいは一学級当たりの単位費用に1.5倍程度の格差が存在する。しかも予定されている公務員給与制度改訂の内容からいってこの格差は今後さらに拡大するものとみられる。地域間には価格格差などもあるから、これを以て直ちに不合理と断ずることは難しいが、戦前のように府県平均で4倍以上の格差があってよいと思う者は少ないであろう。
 第四は地方団体に教育費水準を維持しようとする意思があるかないかではなく、維持することが可能か否かが問題だということである。地方関係者は分権化されたからといって教育費を削減するなどということは毛頭考えていないと主張している。しかし、三位一体改革の狙いが国の財政負担の軽減であり、補助負担金の廃止だけでなく、地方交付税の削減を含んでいる以上、税源の移譲があっても地方の歳入が減少するのは必至である。
 他方学齢児童・生徒数は減少していくものの、義務教育関係の経費が縮小することにはならない。というのも今後ベビーブーマー世代の教職員が定年で大量に退職する時期を迎えるからである。地方団体には民間企業と違って退職引当金の準備がないため退職金による支出の膨張が地方財政を大きく圧迫せずにはおかない。その結果、地方関係者にどれほど教育への熱意と意欲があろうとも、義務教育費を削減せざるをえない事態が到来する。

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尾木 直樹(教育評論家・法政大学教授)

プロフィール
 早稲田大学卒業後、私立海城高校、東京の公立中学校教師を22年間勤める。94年に、臨床教育研究所「虹」を設立。いじめ、キレる子現象、学級崩壊、引きこもり、メディア問題などに先駆的な調査研究活動を展開。また、教育相談、講演、TVへの出演、新聞へのコメントなど幅広く活躍。主な著書に「子どもの目線」(弘文堂)「競争より‘共創’の教育改革を」(学陽書房)「子どもの危機をどう見るか」(岩波新書)等がある。

私はこう思う
 義務教育費の国庫負担制度は、原則として堅持すべきと考える。なぜなら「2005年度末に100%」の達成を目指した校内LAN整備(eジャパン)一つとってみても、達成率は88.6%(岐阜)から12.5%(東京)まで大きな地域間格差を生んでいる(05年3月現在)。これは地方交付税に盛り込まれたものだが、学校情報化と子どもの発達、情報モラル教育をどうとらえるかで各自治体の判断が大きく分かれているためである。現在、中学校の国庫負担分が総額裁量制として三位一体改革の中で地方に委譲されているが、実際の教育現場を歩いている感覚からすると、今からでも十分に押し戻すことができるのではないか。当時は政治情勢に押し流されてしまった印象が強いが、今冷静に考えれば、堅持する必要性は誰もが十分に納得できるのではないか。全国各地の教育長、行政の方、教師の皆さんと話をしていても、納得してもらえると感じる。
 一方で、今教育の現場では、○○高校や△△大学へ何人合格とか、退学者を何人以内に減らすといった数値目標を掲げる成果主義が横行している。これでは目標の達成が最重要課題となってしまい、いじめの増大や自己肯定心情の喪失といった、教師には見えづらい心の内面や数値には表れにくい人間関係力の形成が見過ごされ、教育の広がりと奥行きの深さを奪う現象を引き起こしている。このような状況の中で、成果を上げないと予算がとれないような事態がさらに進めば、現場は益々歪んでしまう。
 財政的な委譲について言えば、それが学校管理の手段になっては問題だ。今学校はバランスシートを出したりしているが、教育は時間とコストだけで割り切れるものではない。それよりも、もっと子どもたちの内面に目を向けたり、対応したりすることの方に力を注いでほしい。
 地域間格差作りの引き金を教育の領域で引いてはなるまい。悪しき平等主義は問題だが、地域格差を助長しては、日本の社会そのものが崩壊する危険さえある。

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小野田 誓(社団法人日本PTA全国協議会常務理事)

プロフィール
 職業・公認会計士・税理士。監査法人丸の内会計事務所(現監査法人トーマツ)勤務を経て、昭和62年、公認会計士小野田誓事務所を開設し、現在に至る。平成13年度より15年度まで名古屋市立小中学校PTA協議会会長。日本PTAでは理事、常務理事、相談役などを歴任。日本PTA全国大会のパネラー等多くの教育やPTAに関わる大会や各種会議に参加。大学生・高校生・中学生の3人の子どもの父親。保護司・名古屋市の各種委員・国立大学法人の監事・監査役・専門学校の講師などにも携わっている。

私はこう思う
 義務教育費国庫負担制度に関する議論は、財政論が中心であり、「子どもたちにとって何が望ましいか、何をすべきか」という視点が決定的に抜け落ちている。
 必ずしも全国の首長の教育に対する意識のレベルは同じではなく、一般財源化されると、将来的な教育水準の低下、そして地域格差が生じることが予想される。これは、教師の質の地域格差にもつながるものと危惧している。
 今の教育現場は、教師と保護者の信頼関係が十分に構築されていない中で、何か問題があればすぐに教師や学校の責任を問われる状況にあり、教師が萎縮している。その上に人件費が確保されなくなると、希望を持って教職に就こうとする人材が減り、教師のレベルの低下につながりかねない。
 現場の教師に望みたいのは、子どもと最も近い立場の存在として、子どもにとって望ましい教育内容や学校環境を実現するために、「現状の課題は何か」、「どう対処すべきか」などを、もっと現場の声として社会に、地域に、そして保護者に情報発信してほしいということである。
 少人数学級は、方向性としては望ましいと考えるが、少人数学級になれば必ず教育の質が向上するとも限らない。したがって、保護者としても、少人数学級が実現されることで安心するのではなく、今まで以上に、責任感を持って、学校のパートナーとして現場の教師とともに子どもたちを見ていくことが重要であり、その中で今後少人数学級を評価していくことが必要である。
 教師が親や教育委員会の顔色を伺って指導に当たるのではなく、子どもの方を向いて自信を持って指導を行うことができるような環境作りを、国や地方が、それぞれの役割をしっかりと果たしつつ、いかに連携して支援していくかが重要である。

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黒崎 勲(日本大学教授)

プロフィール
 教育行政学を専攻。近代日本の公教育制度成立過程を教育財政制度の側面から考察した研究によって教育学博士の学位を取得。最近は学校選択制度について、単なる市場原理の活用とは別に、抑制と均衡のメカニズムによる公立学校改革の可能性に注目する立場から幅広く発言している。主要な著作としては『学校選択と学校参加』(東京大学出版会)、『新しいタイプの公立学校』(同時代社=日日教育文庫)、『共通の土台を求めて:多元化社会の公教育』(タイヤック著/共訳)(同時代社=日日教育文庫)など。

私はこう思う
 義務教育費の国庫負担についての現行制度が歴史的に安定した制度であったことは明らかである。しかし、国庫負担制度は国家による教育という観念の根拠となり、現行制度が教育の地方自治の観点から大きな問題が生じていることも明らかである。
義務教育は基本的には市町村の教育委員会が中心になってやるべき仕事である。しかし、財政格差が教育格差にならないようにプロテクトする仕組みが必要である。
 地方総額裁量制ならば地方自治の要求を満たすことができるので義務教育費国庫負担制度は維持すべきであるという議論に単純には賛成できない。地方総額裁量制に賛成だが、この制度は従来の義務教育費国庫負担法のあり方について厳しい批判を受けて、提案されたものである。地方総額裁量制はいわば従来の国庫負担制度に対する批判のうえにでてきたという点を重視しなければならない。いわゆる「地方総額裁量制」を義務教育費国庫負担制度の大幅な改革と考えるというのが筆者の見解である。
 教育に非常に熱心な自治体であっても、財政能力が乏しいために十分な教育ができないという問題が起こり得る。逆に財政の豊かなところでは30人学級の実現も容易だろうが、だからといってこの自治体が教育熱心ということにはならない。教育に熱心だが財政能力の乏しい自治体に対して教育費を支援する仕組みの構築が必要である。義務教育費国庫負担制度の一番の問題点は、一律半額負担という点である。熱心度というのは、例えば、交付税の中の学校教育関係の基準財政需要などにあたる標準的な教育財政需要額を設定して、この基準額と実際の支出額とを比較して判断する。この基準額に満たない自治体には追加の支援を行わない、教育の基準財政需要枠を超えて支出を行っている自治体については、教育への熱心度が高いと評価し、傾斜的に補助していくといった工夫された義務教育費国庫負担制度を構築していく必要があると思う。

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佐藤 学(東京大学教授)

プロフィール
 1951年広島県生まれ。東京大学大学院教育学研究科博士課程単位取得退学。教育学博士。三重大学教育学部助教授、東京大学教育学部助教授を経て、現在、東京大学大学院教育学研究科教授。ナショナル教育アカデミー(米国)会員。日本学術会議会員。日本教育学会会長。
主な著書:『学びその死と再生』(太郎次郎社 1995年)「シリーズ・学びと文化」(全6巻 共編著 東京大学出版会)、『教育方法学』(岩波書店 1996年)、『カリキュラムの批評―公共性の再構築へ』(世織書房 1996年)、『教師というアポリア−反省的実践へ』(世織書房 1997年)、『学びの身体技法』(太郎次郎社 1997年)、『学びの快楽―ダイアローグへ』(世織書房 1999年)、『教育改革をデザインする』(1999年 岩波書店)、『「学び」から逃走する子どもたち』(岩波書店 2000年)、『授業を変える・学校が変わる』(小学館 2000年)、「シリーズ・越境する知」(全6巻 共編著 東京大学出版会)、『身体のダイアローグ−佐藤学対談集』(太郎次郎社 2002年)、『子どもの想像力を育む−アート教育の思想と実践』(共編著 東京大学出版会 2003年)、『教師たちの挑戦』(小学館 2003年)など。

私はこう思う
 教育財源は、将来のわが国への投資である。先進諸国では教育予算が拡大している中で、我が国の教育費を対GDP比率で先進諸国と比較すると、教育財源が十分とは言えない。まずは、先進諸国と同等レベルまで、教育費を確保していく必要がある。そのためにも、まずは教育費として、義務教育費などの継続的に守らなければならない部分と国際化教育やメディア教育など今後投資すべき部分を明確に打ち出す必要がある。
 教育全体の財政における国と地方の役割については、欧米の例を見ても、2/3程度は国が負担すべきであろう。教育について国が責任を負う部分は「教育機会の均等」、「先行投資」である。全国一斉学力テストの結果が好ましくない地域に、集中的に人を配置するというような方策も含めて、国がナショナルスタンダードを保障すべきである。したがって、国は十分な教育財源を確保すべきであり、その上で地方が自由度を持って運営できる仕組みが必要である。
 義務教育費国庫負担制度が廃止されて一般財源化されると、何に使われるかわからず、教育投資効率が悪くなる。もし、一般財源化するのであれば、国が教育に責任を持てるようなシステムを構築するとともに、教育財源の使い方について規制強化しなければならない。
 総額裁量制が導入されて、少人数学級及び少人数指導が増加したが、非常勤講師を配置したことで実現しているだけで、必ずしも質が高い教育が提供されているとは言えない。特に、非常勤講師を多く採用することで、教師という職業のステータスが低下することにつながるのではないかと懸念する。今の学校では、授業を行わない教員が多すぎる。非常勤講師を雇わなくても、学校内の事務作業を削減し、校長も含めて教師は教育の専門家として、授業に専念すれば、質の高い少人数学級及び少人数指導が実現できるのではないか。
 また、教師の質という点では、国が研修プログラムを構築して、十分な研修機会を提供していくことで、教師の質を維持していくことも必要である。

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里内 勝(滋賀県栗東市教育長)

プロフィール
 京都大学大学院工学研究科博士課程修了。工学博士。滋賀県立短期大学教授並びに京都大学工学部非常勤講師を経て、1994年から現職。
 現職就任以来、学校施設を快適なものとする取り組みを推進する傍ら、学校に権限と責任を与え、その自主性・自律性を高め、開かれた学校づくりを実践。学校組織マネジメントの確立をめざすなど教育改革に取り組んでいる。現栗東市ISO14001環境責任者、ISO9001品質管理責任者。
 主な著書に、『トイレをきれいにすると、学校が変わる〜人にやさしい学校マネジメントシステム』『Ecological Engineering』『施設の欠陥と製造物責任』『滋賀県自然誌』がある。

私はこう思う
 義務教育費国庫負担制度に関して財政論から大いに議論されているが、「義務教育の目的は何か、その目的をどのようにして達成するか」という重要な視点が欠落している。中央教育審議会義務教育特別部会において義務教育の目的は「国家・社会の形成者の育成」と「一人一人の人間形成」とされている。国は、義務教育において「どのような国民を育成するのか」というナショナル・スタンダードを明確にし、その達成のために必要な資源を確実に提供しなければならない。以上の理由により、義務教育費国庫負担制度を堅持することは国の責務と考える。
義務教育の目的を達成させる直接の当事者は学校である。教育行政、すなわち国、都道府県及び市町村は学校が確実に使命を果たすことができるよう確固たる教育条件を整備しなければならない。また、都道府県による人件費の全額負担が、義務教育の目的達成を左右する条件とは考えられない。
 教師の資質が教育の結果を影響することは間違いがないけれども、それと同時にどの教師も力を発揮することのできる学校運営システムについても考えなければならない。そこでは権限と責任が明確にされた学校運営組織において教職員が学校運営への参画意識をもって教育活動を執行する。教育活動が目標から逸脱している場合は、原因を教職員に求めず、学校運営システムに求める。これによってシステムは継続的に改善される。また、学校の自己評価と公表を義務付けることによって、教職員は決められた学校運営システムに則って力を発揮し、組織目標を達成させ、説明責任を果たすことができる。
 少人数学級を含む少人数教育については、今後も充実を図るべきである。しかし、これに関係する権限が都道府県にあるので、市町村及び学校は問題に応じた弾力的な対応が不可能である。国が学級編成及び教職員配置の基準を定めた上で、学校現場ないし市町村に学級編成等に対する裁量権を与え、現場のニーズに柔軟に対応できる制度が求められる。

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樋口 恵子(評論家・東京家政大学名誉教授)

プロフィール
 東京大学文学部卒。東京大学新聞研究所本科修了。時事通信社を経て学研に勤務。その後キャノン広報宣伝部に勤務する傍ら、女性・家族・教育問題の研究会に所属し、それらの分野の評論家として独立。86年から東京家政大学教授。99年同大学人間文化研究所長。2003年定年退職。公職としては、70年代に東京都社会教育委員、女性問題協議会委員。国では中央社会福祉審議会、内閣府男女共同参画会議議員等を務める。「女性と仕事の未来館」初代館長。95〜2001年に地方分権推進委員会委員として義務教育費の国庫補助負担金や教育長の国による任命承認制の廃止への論議に関わる。著書としては教育関係では「親と子の距離を考える」「育児は育自」「他人が見える教育」など。

私はこう思う
 1995〜2001年の6年間、私が地方分権推進委員会の委員在任中、義務教育国庫負担金に関しては、ナショナルミニマムとして、国庫負担金廃止・縮減の例外とする勧告を行っている。文教行政に関しては、学校施設などの転用をはじめ、あまりにも大きい国の規制・関与が問題となり、かなり改善されたと思う。義務教育の全国的水準を保つために財政は国で、中味の創意工夫は地方の自由に、というのが当時の合意だった。
 時代は変わり、税制債権が最優先課題となるとき、いわゆる「聖域なき見直し」は必要だろう。しかし今回中教審において、財政は国で、裁量は地方に、という基本方針が出されると聞いて、どんな時代にも義務教育に関しては一貫して変わらぬ方向が堅持されたと意を強くしている。
 私たちの世代は、子連れ転勤族が大量に生じた初代である。昭和40年代から50年代が子どもの義務教育盛り。こんなとき全国各地を子供連れで一家揃って動き回れたのは、どこでも一定の教育が受けられる、という義務教育への信頼感があったからだ。義務教育水準の地位格差が大きくなったら、子どもが幼いうちから単身赴任する親たちがきっといまより増えることだろう。
 私は日本という国の国民のこれからの連帯の柱は、義務教育と社会福祉・社会保障だと思っている。義務教育は個人の人生と国家社会の未来と双方に対する必須の投資である。同時に福祉と義務教育は地方・地域に立脚して行われ、国の土台をなすものである。21世紀の地域創造、あらゆる世代間の交流をすすめる核となる可能性を義務教育に期待している。

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藤田 英典(国際基督教大学教授)

プロフィール
 早稲田大学政治経済学部卒。スタンフォード大学教育系大学院修了(Ph.D.)。名古屋大学助教授、東京大学教授・教育学部長を経て、2003年4月より現職。2000年に教育改革国民会議委員。現在、東京大学客員教授、日本学術振興会主任研究員を兼任。1990年代半ば以降、世界十数カ国の教育省・教育委員会や百数十の学校を訪問し、教育改革・学校改革について比較社会学的に研究してきた。主な著書に『義務教育を問いなおす』(ちくま新書)『教育改革』(岩波新書)『市民社会と教育』(世織書房)『新時代の教育をどう構想するか?』(岩波ブックレット)『子ども・学校・社会』(東京大学出版会)等がある。

私はこう思う
 日本の義務教育は、欧米先進諸国に比べて、公教育費のGDP比は小さく、教員一人当りの児童生徒数は多いにもかかわらず、その質・水準に関わるほとんどすべての指標で世界のトップレベルにある。学力水準は、「ゆとり教育」等で低下傾向にあるとはいえ、OECD調査でもIEA調査でも読解力を除いてトップクラスを維持している。校内暴力、いじめ、不登校なども、欧米先進国に比べて軽微だとは言えても、劣悪だと言える根拠はない。少年犯罪が先進諸国のなかで極めて低い水準にあることも周知の事実である。高校・大学進学率、同卒業率、学校出席率なども、世界のトップクラスにある。(むろん、だからといって、低下が危惧される学力の向上や、校内暴力・いじめ・不登校・少年犯罪等に適切かつ有効な対応策を講じる必要がないということではない。しかし、そのほとんどは、カリキュラムや教育実践の改善で対応すべきものであって、制度改革で対応できるような問題ではない。)
 これらの指標が示す教育の質の向上は、この十数年、世界の教育改革が目標として掲げてきたものであり、その点で日本の義務教育は一つのモデルとされてきた。その際、日本の卓越性を支えている要素として注目されてきたのは、教育機会の平等、教育活動の包括性・総合性、学校の包括的なケア機能と教職員の協働性・献身性、教員の力量の高さと授業研究をはじめとする多様な研修・啓発活動などである。しかし、皮肉なことに、こうした事実と評価を無視して、その卓越性を支えてきた基盤を解体するような改革が次々と進められている。特に義務教育段階から教育機会を差別化し、子どもたちを「勝組み」と「負組み」に分断するような改革、査察権力によって学校・教員を評価・統制し、教職員の自発性と協働性の基盤を解体するような改革、全国一斉学力テストによって教育の成果を一元的に評価し、学校の序列化と包括的で多様な教育活動の矮小化を招くような改革は、日本の教育と社会の将来を危機に晒す危険性が大きい。
 むろん、日本の教育にも改革・改善すべき点は少なくない。適切な分権改革、現場裁量権の拡大、保護者・地域住民の参加と協働の促進などは、その主要な側面の一つである。しかし、それらは教育行政・学校運営の制度とその運用・実践の改善で対応すべきものであって、義務教育費国庫負担金のような財政制度の改革で対応するような問題ではない。義務教育費国庫負担制度は県費負担教職員制度と共に、日本全国どの地域でも、自治体の財政力に関わりなく、ナショナル・スタンダードを満たす教育の機会・サービスをすべての子どもに保障する、その主要な基盤の一つである。教育条件の整備・充実のためにも教育予算の拡充は不可欠であるが、義務教育費国庫負担金を廃止・一般財源化したからといって、教育予算が増えるわけではない。それは、自治体に教育予算を削減する自由と、首長・一般行政が教育行政に(不当に)介入する権限の拡大をもたらすだけで、教育の機会・サービスの改善・向上に直結するものでもなければ、その可能性を拡大するものでもない。
 教育は子どもの現在と将来への投資であり、来るべき社会への投資である。その投資が豊かなものでなければ、子どもの現在と将来も社会の未来も希望の持てるものにはならない。教育はまた、<未完のプロジェクト>である。制度を変えたからといって、それで完成するというものでもなければ、成功が保障されるというものでもない。<未完のプロジェクト>を支える人びと、とりわけ教職員の弛まない誠実な努力と協働によってこそ、成功の可能性が高まるものである。そのために、いまどういう改革・改善が必要とされているのか。関係者の責任ある賢明な判断を期待したい。

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宮崎 緑(千葉商科大学助教授)

プロフィール
 慶應義塾大学大学院修了。法学修士。東京工業大学講師を経て、2000年、千葉商科大学政策情報学部助教授に就任。NHK「ニュースセンター9時」初の女性ニュースキャスターに就任したジャーナリストとしての経験を活かし、専門の国際政治学及び政策情報学に実学としての体系を導入。また、屋久杉と大島紬の保護に取り組み、2001年より地域文化の情報発信拠点である奄美パーク園長及び田中一村記念美術館館長も兼務。
 神奈川県教育委員。南日本新聞客員論説委員、日本計画行政学会理事、日本社会情報学会理事、日本医師会広報戦略会議委員、計量行政審議会委員(経済産業省)等を歴任。先頃、加藤寛学長の監修による竹中平蔵大臣らとのコラボレーション『立国は私なり、公にあらず』(第一法規)が話題になった。

私はこう思う
 国家100年の大計である教育を目先の流行で左右していいのか。なかんずく政争の具としていいのか。というところから考えを始めたい。ポリティシャンが次の選挙のことしか考えないのに対し、次の世代のことを考えるのがステーツマン、とはよく言われるところだが、社会、文化の骨格をなす教育は次の世代のみならず、その先何代もの世代にわたって影響を与えていく。この国をどのような国にしたいのか。文化の中心軸をどこに置くのか。その信念と責任をもって論じたいものだ。
 たとえば義務教育費の負担の問題を論じる時の一つの柱として、いわゆるナショナルスタンダードがあげられる。荒っぽい表現をお許しいただくなら、国家負担を主張する意見の根拠は、たまたま生まれた地域によって教育に差が出ては憲法で保障された権利にもとる、全ての国民が等しい水準の教育を受けるには国家の負担が必要だ、ということになろう。それなら全ての教員を国家公務員にしていただいた方がわかりやすい。
 また、一般財源化を主張するなら、地域特性を追求する理想と同時に地域間格差が出るかもしれないことに目をつぶってはならないだろう。特に、政令指定都市のような力を持った自治体も、体力の無い市町村も同じく、市町村立の義務教育諸学校の教員の給料を国と都道府県が半分ずつ出し、都道府県には実質的にお金だけ出して口は出せないという仕組みは、責任の所在を曖昧にするばかりで、実のある教育の中身に踏み込めないのではないか。
 改革はおおいに必要だが、その際、受け皿となる社会のあり方を含めて考えないと矛盾を生む恐れがあろう。格差のある社会を是とするのか、フラットな社会を望むのか、この問題の本質はここにあるのではないかと思う。

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守屋 大光(神奈川県葉山町長)

プロフィール
 国学院大学政経学部卒。国学院大學神道学専攻科卒業。鎌倉鶴岡八幡宮総務部長を経て、森戸大明神宮司。昭和56年3月より葉山教育委員会委員。昭和63年3月より葉山町教育委員会委員長。平成5年2月、葉山町長就任。現在4期目。

私はこう思う
 現在、地方分権とともに三位一体の改革が進行し、教育に関しても新たな方針が示されているが、「国づくりは人づくりから」と言われるように、将来の我が国を支える人材を育成することは、最も重要な施策であり、義務教育費国庫負担制度は堅持すべきである。
 今後、もし、一般財源化された場合、教育の重要性については申すまでもなく全ての首長は認識しているが、しかし、財源の問題から十分な教育を提供できない可能性がある。一般財源化を議論するのであれば、まずは国と地方、都道府県と市町村における、税の配分を決めることが先決であり、また、一般財源化して地域の特色ある教育をという意見もあるが、総合学習の時間など、現行の仕組みの中で、実践することは可能である。
 少人数学級に関しては、本当に子供にとって望ましいかどうかという点については判断が難しい。そもそも少人数学級を検討する前に、国としての教育方針、ビジョンを明確にする必要がある。その上で、少人数学級が良いのか、40人学級が良いのか判断すべきである。ただし、現状の制度では、基準数を1人でも超えると2つに分割しなければならないが、この点については多少の許容範囲を設けて、地方で判断できる仕組みが望ましい。
 もう一つ大きな問題は、教師の育成である。特に義務教育の段階は、これからの人格形成に大きな影響を及ぼす時期であり、今まで以上に教師の資質向上を目指すべきである。そのためには、教員採用の仕組みや研修プログラムについても、国が中心となって再検討すべきである。

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渡邉 光雄(福島県原町市教育長)

プロフィール
 東洋大学社会学部卒。75年より(株)日本教育新聞社に勤務し、97年〜2000年まで取締役編集局長。98年〜2002年に北海道立正学園旭川実業高校理事。2000年〜2002年には、教育図書出版社である(株)アドバンテージ・サーバー、また、2001年〜2002年には日本女子大学非常勤講師(生涯学習論)を兼務、02年9月より県内2番目の公募制で現職に。主な著書として、「教師教育の再検討3 現職教育の再検討」(共著、教育開発研究所)、「臨教審と教育改革 第1〜5集」(共著、ぎょうせい)、「教師生活大百科」(共著、ぎょうせい)、「生涯学習と学校・社会 学校経営と法研究会叢書2」(共編著、八千代出版)ほか。

私はこう思う
 高齢化と産業構造の高度化・多様化が進み、誰もが生涯に亘ってキャリアアップできるシステムが求められるときだからこそ、教育については地方の自主性を認めつつも、ある程度の学校教育の保障はもちろん、いつでもどこでもリカレント可能な生涯学習の体制づくりを国として責任を持って推進することが必要である。現状の制度で決して完璧というわけではないが、三位一体の改革論の中で、財源移譲など全体の行財政論の方向性が見えない段階では、やはり義務教育費国庫負担制度は堅持すべきであると言わざるを得ない。
 戦後の地方財政平衡交付金による一般財源化、すでに削減された教材費、研修費等の一般財源化による経緯を見ても使途が見えにくくなることや市町村格差の恐れがあり、将来的に教育財源の重要性に対する認識が薄れてくることが懸念される。
 義務教育費国庫負担制度に関する一連の議論では、財政的な部分のみ議論されて、我が国として、どのような人材を育てていくのかという本質的な議論が十分になされていない。国としての人材育成の在り方について方針を明確にし、それを実現するために必要な仕組みを構築して、財源面でこれを支えていく方策を議論することが必要だし、それが国の役割である。
 総額裁量制が導入されたことで、本県では全学年で少人数学級または少人数指導が実現されたことなど、一定の効果はあったと思うが、さらに教職員の配置に関する規制の緩和も進めてほしい。非常勤の教員であっても優秀な人材は存在する。学級担任だけでなく部活動の指導も可能とするなど、もっと学校現場の実態と意向を反映した教職員配置を始め、安心して教育活動に専念できる弾力性のある人事制度や仕組みへの転換を期待したい。

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